2026年11月2日月曜日

詩素21号

詩素21号が完成した。

20号を超えたので、ここで方針を少し変更し、毎号二人の編集委員を置いて、巻頭トップの作品を選んでもらい、詳しい選評を書いてもらうことにした。今号の編集委員は八覚正大・南川優子のお二人。

今回の参加者は、海埜今日子、大橋英人、坂多瑩子、酒見直子、沢聖子、大家正志、高田真、南原充士、新延拳、二条千河、野田新五、肌勢とみ子、八覚正大、平井達也、平野晴子、深澤眞歩、南川優子、八重洋一郎、山中真知子、山本萠のみなさんと、小生。

ゲスト〈まれびと〉は、眞神博さん。

巻頭は、二条千河「家はまだ」、平井達也「小鬼」、みゆ・なーと(大橋英人)「秋と道の、ロンリー·ゲーム」、海埜今日子「テラリウム・メール」、酒見直子「無花果」。

表紙は、今回から山本萠さんの作品となる。

裏表紙の絵は野田新五さん作。



ぜひご覧下さい。

詩素バックナンバー:

https://www.kozui.net/siso.html


(池田康)

2026年10月28日水曜日

ごりごりのビジネスの……

性善説が通用すれば社会は安上がりになる、が、なかなかそううまくはいかない。

インターネットの世界で悪質なハッキングの事件が頻発している。かつてインターネット空間が一般に開放された頃は性善説に基づいた、経済原理から少し距離を置いた、自由と博愛の理想を目指した場所だったはずだ。情報が無償でやり取りされる、実社会とは違う秩序の場所。そんなふうに思い出すのも昔のこと、今やインターネットはごりごりのビジネスの場となった。それに準じてその弊害も大きくなる。全ての人間が被害者になってもおかしくないような被害の数字になってきている。荒療治としてはインターネットを閉鎖廃止するという方法も、極端な話、なくはない。少なくともこのような無法特区でなくともという気もするのだ。

(池田康)

2026年10月9日金曜日

双六百三著『生命の賽はころがる』

双六百三著『生命の賽はころがる』を刊行した。四六変形判152ページ、税込1980円。

みらいらん18号で特集「動物の位相」を組んだが、その延長線上でこの本が生まれた。歴代の「動物詩集」にならって動物のイラストを文章に添え、絵本の形にした。カバーの袖に載せた案内文は次のとおり。

「われわれの生は万に一つの確率の綱渡り。生命という魔法の鍵は地球上の無数の種に散らばり、発現し、七変化し、種も仕掛けもないのに謎だらけの森羅万象の、食う食われる、依存と敵対、ほどき難くややこしく絡み合うのが生き物の時空だ。そんな世界の数々の不思議場面に言葉のいたずらと絵の遊びによってこっそりもぐりこむ。年齢無制限の小さくて大風呂敷の絵本。」


見開きの右側に短い文章を置き、左側に動物たちのイラストを配する。古今東西の生き物エピソードを軽妙に物語り、時には深刻なトピックも混ぜつつ、我々の生命世界をあちらからこちらへと周遊する。絵本なので、楽しい絵に目を遊ばせながら、あっという間に読み終えることができるだろう。6600万年前の巨大隕石落下がなかったら人類の盛栄もあり得なかっただろうという認識から書名の「賽」は来ている。本文の最初の文章はこんな感じだ。

「六六〇〇万年前に大きな隕石が落ち、恐竜が絶滅し、哺乳類の世界が始まり、人間の地球支配の可能性の扉が開いた。偶然の隕石がもたらした棚ぼたの幕間劇。賽のいたずら。人間が立ち上がるのを鳥たちが見ていた。」

ぜひご覧いただきたい。

(池田康)

2026年10月3日土曜日

両国、江の島

この前の日曜日は江戸東京博物館会議室で開かれたTOKYOポエケットに出店参加した。いくつかの得難い出会いに恵まれた。ちょうど大相撲の千秋楽の日で、駅では力士の姿も見かけ、チケットがあったらなあととても残念に思ったことだった。

一昨日はちょっとした用事で江の島に行き、ついでに島巡り、江島神社をへめぐる参道ルートをざっと歩いてみた。外国からの観光客も多い。西端の芭蕉の句碑まで辿り着くころにはもうクタクタになっていた。海の眺望が気持ちいい。下の写真は、島の東の端にある灯台。海の向こうは鎌倉・逗子。



(池田康)

2026年9月23日水曜日

台風25号、オデュッセイア

台風25号接近通過、ベランダの鉢を室内に入れるなど備えた。千葉では深刻な被害が出ているようだ。うちの近辺は枝が散らばっているくらいでさほどのことはなく、よかったと安堵したのだが、原付バイクのエンジンがかかりにくくなっていて、また座席が水分をたっぷり含んでいたようで、15分ほど乗ったら尻がずぶ濡れになった。

先週には、みらいらん次号掲載予定の、重要な対談を行った。長い秋雨と台風25号の間の貴重な好天の日。対談自体はつつがなく終了したのだが、写真撮影と録音は危なかしかった。たくさん撮っても使えそうなのはわずかというのはいつものことだが、この日は外光の取り入れに安心してしまったのもあってか確率がより低くなった。録音機は2台使ったが、メインのレコーダーに思わぬ支障が出て(知らぬうちに最高音質モードで録音していてすぐに容量いっぱいになってしまった)、サブ機に一縷の望みをつないだ形になった。ひやひやの一日だった。

映画「オデュッセイア」(C・ノーラン)を見た。重厚で隙がなく、評判通り迫力満点。題材に向かう真剣さをひしひしと感じる。古代の叙事詩は波瀾万丈だ。物語を整理する都合からか、ナウシカア王女が出てこなかったのは少し残念。

次の日曜日、27日に第28回TOKYOポエケットに参加の予定。お暇ありましたらお越し下さい。江戸東京博物館1階会議室、午前10時から午後4時半まで。

(池田康)

2026年9月11日金曜日

秋雨の日々

秋雨に悩まされる9月上旬の日々。バケツをひっくり返したようなという常套句があるが、日本上空にはバケツがいくつあるのだろうか。量産体制に入ったのだろうか。青空が恋しい。

城戸朱理さんから連絡があり、アメリカの長い歴史を誇る文芸誌「World Literature Today」の創刊百年記念アンソロジー「世界文学の100年」に作品がオクタビオ・パスらと並んで掲載されたとのこと、驚嘆であり、目覚ましい慶事で、心より祝意を表したい。

山本萠さんから秋の個展の案内をもらった。次のとおり。






(池田康)

2026年9月1日火曜日

「沃野の月」のことなど

最近びっくりした体験を一つ書くと、先週のある日の午後、幻覚を見た。現実の時空とつながらない光景を錯視するのは気味の悪いことだった。何が引き金だったのか。料理に使ったぶなしめじの中に変なキノコが混じっていたのか、新しく届いた印刷物のインクなどの成分がいけなかったのか、それとも散歩中に何かおかしなものを体内に取り込んだのか。

日曜日、天王洲の銀河劇場で、野村眞里子さんプロデュースのフラメンコ公演「沃野(ベガ)の月」を観た。スペインのフェデリコ・ガルシア・ロルカをテーマにした舞踊。ロルカは昔、戯曲をいくつか読んだことがあり、イプセンやチェホフとは違った、いきなり核心へと向かうような直裁な書き方に強い印象を受けたことがある。1936年8月、38歳で銃殺されるという最期も衝撃的だ。スペインのフランコ政権は1975年まで続いたというからヨーロッパでも特殊な近現代史を持つ国と言えるのだろう。フラメンコはとても独自色の強い舞踊・音楽の文化で、その濃密な個性に気圧される。アフリカのリズムやアラビアの感受性、ロマ族の香りも混ざり合っているのだろうか。ロルカの死にあたると思われる部分のソロ舞踊(アルベルト・セジェス)がことに強烈なパフォーマンスだった。野村眞里子さんの夫君の野村喜和夫さんのロルカを想う詩の朗読もあった。こういう舞台作品も、実生活の時空とつながっておらず、その意味で幻覚に近いものであり、くらくらする体験だ。

ついでに。土渕信彦さんの京都のギャラリーの新しい企画展示の案内が届いた。下の通り。


(池田康)