2026年5月15日金曜日

吉増剛造さんの個展の案内ほか

 製菓会社カルビーがポテトチップの袋を白黒印刷に変更する計画というニュースは、インクの品薄への対策という域を超えて、現在の情勢に反応した一つの表現になっているように感じた。デモ行進と同じくらい、あるいはそれ以上の効果がありそうだ。

詩人の吉増剛造さん(87)が、英米で新しく創設された、「サーペンタイン×FLAG美術財団賞」の第1回受賞者に選ばれたとのこと。文学ではなく美術関連の賞のようだ。おめでとうございます。その吉増さんの個展「ジョナス・メカス/吉増剛造」が東京都港区東麻布のTAKE NINAGAWAで開かれる。会期は明日から7月11日まで。

https://www.takeninagawa.com

それからAyuoさんのコンサートの情報。ライブ『イラン、中央アジアの音楽、その他』、6月27日に表参道のLive space ZIMAGINE、19時スタート。

https://zimagine.genonsha.co.jp


今日は往復200kmを超える遠出、帰宅して、膝ががくがくしている。


(池田康)

2026年5月5日火曜日

詩素20号ほか

 詩素20号が完成した。

今回の参加者は、海埜今日子、大橋英人、坂多瑩子、酒見直子、沢聖子、大家正志、高田真、南原充士、新延拳、二条千河、野田新五、肌勢とみ子、八覚正大、平井達也、平野晴子、深澤眞歩、南川優子、八重洋一郎、山中真知子、山本萠、吉田義昭のみなさんと、小生。

ゲスト〈まれびと〉は、長嶋南子さん。

巻頭は、池田康「大水」、酒見直子「きせつ」、吉田義昭「海の奇跡」。

表紙の詩句は、エミリー・ディキンスン(私は無名の……)。

裏表紙の絵は野田新五さん作。

ぜひご覧下さい。

詩素バックナンバー:

https://www.kozui.net/siso.html





先月末から今月初めにかけて、神山睦美著『共苦─コンパッション』を主題とする書評研究会に参加し、そしてピアニストの高橋アキさんのモートン・フェルドマン作品ばかりを演奏するリサイタルに赴いた。これらについては「みらいらん」次号に少し書きたいと思っている。

彫刻家、豊田洋次さんの参加する展覧会の案内が来ている。会期は昨日から10日まで。下記の通り。



そして、南原充士さんがエッセイ集『価値観の研究』をアマゾンKindleで刊行した。

www.amazon.co.jp/dp/B0GX2ZT4V4


(池田康)

2026年4月12日日曜日

山本萠さんの個展

昨日、国分寺のくるみギャラリーでの山本萠さんの個展(13日まで)を見に行った。詩歌や文字を書いた書作品が目立った。「沙」の作品など字の形が非常に朧になっていて抽象水墨画の趣。天気の良い土曜日の午後だったので訪問客も多く、詩素メンバーの高田真さん、肌勢とみ子さんとも会うことができた。高田さんは目を悪くしていて三年ほど会えてなかったが、お元気そうで安堵。西国分寺駅の立ち食い寿司屋を知る。


ついでに、到来している催しの情報を二つ。

土渕信彦さんの京都のギャラリー「点」の新しい展覧会のお知らせ、下記の通り。店の住所は、京都市東山区石泉院町405番地2

https://galleryten-kyoto.com



それから、ピアニストの高橋アキさんのリサイタルが5月2日に開催される。モートン・フェルドマン特集。開演14時で、その30分前からプレトークがある(柿沼敏江氏と)。会場は神奈川県立音楽堂。一般四千円。終演予定時間が18時になっており、かなり長いリサイタルのようだ。

(池田康)

2026年4月5日日曜日

横須賀での句会

昨日の雨をものともせず、近所の川沿いの桜並木は今日あたりが満開のようだった。

昨日、横須賀にて句会を開催した。柴田千晶さんが講師。14名参加のうち、半分は詩の書き手、半分は柴田さんの俳句仲間。俳句に専心する人たちの余裕綽々の底力が明らかに結果に出て、詩を弄ぶ輩をじんわりと寄り切った感じだ。スカジャンを詠み込んだ句が多かったので、横須賀の人は皆スカジャンを持っているのですかと訊いてみたら、案外そうでもないらしかった。

句会前の散策は風雨のため中止になったが、一人で少し歩いてみた。横須賀は初めてで、駅からすぐの港に軍艦や潜水艦が数多く停泊している光景はまさに異世界だ。下はこの日撮った写真の一枚。ドブ板通り。



さて全く別の話題。

プロ野球セ・リーグ、中日ドラゴンズが開幕5連敗をしてそのあとようやく1勝した。その試合に完投し勝利投手となった大野雄大が、5連敗の後に自分の番が回ってきた心境について、「ほんまに頼むわ」と思ったと語ったそうな……そんな報道を読んで、笑ってしまったのだが、これはUSAの今の大統領に言いたいセリフだ。世界中の新聞が第一面に大きな文字で「ほんまに頼むわ」と書くのがよいかと。大統領の優秀な側近がこの関西弁のニュアンスをうまく通訳してくれることを期待して……いやいやそこまで優秀な側近はいないか。

(池田康)

2026年3月29日日曜日

二つのテレビドラマとドン・ジョヴァンニ

7年ほど前に小研究を試みて以来深い関心をもって注視している女優・志田未来の主演ドラマ「未来のムスコ」がこの冬期に放映されたので楽しみに見ていた。この人は助演でもよく出ているが、主演のときの方が人間の奥行きの隈を覗かせる瞬間が多いので、ありがたい。またこちらも魅力ある若手女優・杉咲花主演のドラマ「冬のなんかさ、春のなんかね」も同時期にあり、しかも映画監督の今泉力哉が脚本・監督を務めるということなので、やはり興味津々視聴した。

この二つのドラマは共通点がいくつもある。女主人公が恋愛要素ぶくみで複数の男と近づいたり離れたりする点、文化芸能にかかわる仕事をしている点(俳優・小説家)、二十代から三十代へ(青年期から壮年期へ)と向かう敷居のような時期に立っている点、重鎮クラスの俳優をほとんど使わずドラマの重心がふわっと高めになっている点。東京に暮していながら偶然にもどちらも故郷は富山という点も共通する。ただ、ドラマとしての色合い、性格は相当に違い、志田作品はSFコメディ寄り、杉咲作品はやや奔放でアンニュイな街ロマンス。

さて、「冬のなんかさ、春のなんかね」はモーツァルトのオペラ「ドン・ジョヴァンニ」と比べてみたい気がする。ドン・ジョヴァンニほど派手にではないが、主人公の土田文菜は(基本いい子に見えるが)男Aから男Bへ、そして男Cへと蝶のように風のように移動する。カラヤンとベルリン・フィルが実力派キャストを揃えて1985年に録音した「ドン・ジョヴァンニ」のCDの付録冊子には、主人公の名前の脇に「ふしだらな若い貴族」と添え書きがある。これは土田文菜にも似合いそうな言葉だ。小説家という職業はどこか貴族のようなイメージがなくもない。漱石の言葉を借りれば高等遊民となるだろうか。このドラマを見ていると小説家ってすれっからし(&心を病みがち)だなあと思えてくるのだが、もともとの発想の原点では映画監督、映画人なのかもしれず、その方がどちらかというとありえそうな気もする。

「ドン・ジョヴァンニ」では、周知の通り、主人公が殺した騎士長(ドンナ・アンナの父)の幽霊が石像の形を借りて登場し、主人公と対峙する。これについて、とくに物語の最後の決着については、是非があるところだろうが、石像が登場することによってこの世俗的女たらし物語に締まりが与えられるのは間違いない。石像はあの世からこの世への闖入者であり、このやくざな艶聞譚を宇宙の座標に定位させる聖なるピンである。

この石像に当たるものが「冬のなんかさ、春のなんかね」にはないように見える。あった方が作品にアクセントができ引き締まるようにも思われるのだが、そういう超越的なものを持ち込まないという今泉力哉の作品思想が働いているのだろうか。それも一つの立派な考え方、姿勢だが、かつて「静劇は、静劇のままであれば、単なる静劇にすぎない」とナンセンスな同語反復の戯言を書いたことがある私としては、気になるところだ。強いて言えば、出現して程なくむなしく消える空色のマフラーが石像に当たるか。この小道具はおっかない凶器のようでありとても効果的。マフラーが一瞬恐怖の石像に見えるとしたらこれはマジックだ。ついでにもう一つ言えば、小太郎(岡山天音)は幾分か従者レポレッロの役割を担っているように見える。そして男たちが少し間が抜けていたりヘンテコだったりの奇矯な善良さがこのドラマの世界をパステル画のように柔和にしている。

「未来のムスコ」には色狂いの要素はないが、「ドン・ジョヴァンニ」の石像に当たる要素が組み込まれている。主人公の汐川未来のもとに、十年後の未来から自分の息子颯太がやってくるという超越的なSF設定がそれだ。異世界からの闖入者。ただ、「ドン・ジョヴァンニ」の石像は主人公と敵対する存在だったのに対し、こちらのムスコは主人公にとって守護神のような存在であり、導きをもたらす。しかしそれとともにとんでもない生活上の苦労も主人公に負わせ、社会的底辺にいる彼女は圧し潰されそうにもなる。このムスコは、あえて言い換えるなら、思いがけなく訪れる巨大な「ヴィジョン」であり、それを受け入れるか、どう関わるかは本人次第だ。ドン・ジョヴァンニは石像によって破滅的結末へと導かれるが、汐川未来はかわいいけれど世話の焼けるムスコによって予定されているはずの明るい世界へと導かれるのだろう、という予想は少し裏切られ、明るい色調が支配するドラマではあるが、最終局になってこのムスコが悲劇性を帯びていることがわかり、強烈なブルーが描き込まれ、絵全体にささやかな厳粛をもたらしている。

「冬のなんかさ、春のなんかね」では恋愛の危険な毒に酔わされることになるのに対し、「未来のムスコ」は悪人が出てくるわけでもなく、ドラマの基本的性格の限定ゆえ毒の要素は薄い。3年前の「勝利の法廷式」(弁護士役)のほうが悪の領域の近接、濃い毒の要素があって、その分表現される精神的深淵の色合いもぞくりとするダークさを帯びていたように思う。主人公自身が強烈な悪徳である「ドン・ジョヴァンニ」は、ベートーヴェンも嫌ったというが、なかなかなさそうな特殊な物語かもしれない。それでも主人公が悪を抱えるケースは、「罪と罰」「異邦人」「金閣寺」などあるにはあり、世界を逆さに切断して捉える一つの有力な方法と言えそうだ。

富山に関しては、富山弁は「未来のムスコ」のほうが濃く、富山の映像は「冬のなんかさ、春のなんかね」が見応えあった。


追記。カラヤンはベルリンフィルと録音したあと、翌々年の1987年にほぼ同じキャストでウィーンフィルとザルツブルグ音楽祭で同作を上演しており、DVDで視聴することができる。

追記2。「未来のムスコ」は劇団活動が中心にあるが、ドラマの中に舞台を持ち込む劇中劇の形は、劇の全体をやる訳にはいかないから、映えるようにするのは簡単ではない。昨秋の三谷幸喜脚本のドラマにも舞台を映し出すシーンがあったが、暗闇に始まり暗闇に終わる演劇は巨大な夢そのものであり、舞台装置、衣装、照明、音響を駆使して舞台の一シーンを宝石にまで磨き上げないと説得力が不足するという難しさがある。そういえば映画「陽炎座」、「国宝」、「木挽町のあだ討ち」も舞台シーンを重要な要素として組み込んでいた。いずれにしても、本筋と有機的に絡み合っていると、それだけ効果が上がるようだ。

追記3。これは蛇足だが。志田未来が出演している最近の映画「ほどなく、お別れです」は葬式の宗教的対話のチャンネルが可視化される感じ、死と大地がつながる感覚がある。棺を大風景の中に置くシーンは、我々の現在の生活風習からすればデペイズマン効果があり、どことなくマグリット絵画の趣になっていて、この映画の発明と思われた。

(池田康)

2026年3月24日火曜日

横超忌ほか

昨日の午後、吉本隆明を偲びその文学・思想について語る「横超忌」が神山睦美さん主導のもと開かれ、参加した(池袋の東京芸術劇場ミーティングルーム)。吉増剛造・佐藤幹夫・生野毅の三氏の話がメインとなる。吉本隆明の手紙の言葉に感じられる素の存在感や根源的な仕草(吉増さん)、吉本隆明と三島由紀夫を幼年時代からの生い立ちをベースに比べてみる試行(佐藤さん)、吉本隆明が敵対的発言をするときの非常識なまでのきつさ残酷さとその背景(生野さん)、かい摘みすぎだが、およそこのような内容だった。最後に神山睦美・三上治両氏の挨拶で散会となった。

会の終了後、新宿へ。実はこの日の午前に新宿の紀伊国屋書店を訪れていたのだが、壁の貼り紙に、タカシマヤタイムズスクエア南館の6階に洋書専門の支店「Books Kinokuniya Tokyo」があると案内されていたのを目にして、ぜひすぐに行ってみたくなり、夕方に足を運んだというわけ。店内はかなり広く、充実している。主にフランス語の本のコーナーを見ていたのだが、ボードレールやランボーの詩集は平積みにされ、プルーストの主著やモーリス・ラヴェルの書簡集の巨大なブロックのような本も置いてある。アゴタ・クリストフの『Le grand cahier』と詩のアンソロジーの豆本(12×8.5センチ)を購入。前者については著者紹介の文章に「elle」とあるので、この人は女性だったのかと気づく、まことに迂闊な次第。それにしてもこれだけの洋書の品揃え(約12万冊だとか)は、再販制度外であるとすれば維持が大変そうで、日本人で関心のある人たちが客になるだけでは足らず、海外から移住してきて日本に暮らす人たちがこの店を知って利用する必要があるのではないか、そんな気がした。

(池田康)

2026年3月17日火曜日

井上直さんの個展ほか

先週末には井上直個展へと足を運んだ(銀座・コバヤシ画廊)。「それでも我らは星を見る」大きいサイズ3枚と小さい作品5枚ほど。〈宇宙+インターネット+星座文字+郷愁〉の意欲作だった。

先日書いた父遺品のカメラだが、リチウム電池を新調したら正常に動いた。下はそれで撮った一枚。このカメラの目は空をとても青く写す。


ついでに。

最近、マックPCのOSをヴァージョンアップした(Tahoe)が、いろいろ小さな変更に戸惑うその一つとして、絵文字と記号の文字表から欧米の文字が消えていた。アクセント記号などがついた字を探すとき、これは不便。また依然として連絡先ソフトの文字が小さい(大きく表示できない)のも不便。これを見て封筒に宛名を書くという用途を想定していないらしい。

(池田康)