7年ほど前に小研究を試みて以来深い関心をもって注視している女優・志田未来の主演ドラマ「未来のムスコ」がこの冬期に放映されたので楽しみに見ていた。この人は助演でもよく出ているが、主演のときの方が人間の奥行きの隈を覗かせる瞬間が多いので、ありがたい。またこちらも魅力ある若手女優・杉咲花主演のドラマ「冬のなんかさ、春のなんかね」も同時期にあり、しかも映画監督の今泉力哉が脚本・監督を務めるということなので、やはり興味津々視聴した。
この二つのドラマは共通点がいくつもある。女主人公が恋愛要素ぶくみで複数の男と近づいたり離れたりする点、文化芸能にかかわる仕事をしている点(俳優・小説家)、二十代から三十代へ(青年期から壮年期へ)と向かう敷居のような時期に立っている点、重鎮クラスの俳優をほとんど使わずドラマの重心がふわっと高めになっている点。東京に暮していながら偶然にもどちらも故郷は富山という点も共通する。ただ、ドラマとしての色合い、性格は相当に違い、志田作品はSFコメディ寄り、杉咲作品はやや奔放でアンニュイな街ロマンス。
さて、「冬のなんかさ、春のなんかね」はモーツァルトのオペラ「ドン・ジョヴァンニ」と比べてみたい気がする。ドン・ジョヴァンニほど派手にではないが、主人公の土田文菜は(基本いい子に見えるが)男Aから男Bへ、そして男Cへと蝶のように風のように移動する。カラヤンとベルリン・フィルが実力派キャストを揃えて1985年に録音した「ドン・ジョヴァンニ」のCDの付録冊子には、主人公の名前の脇に「ふしだらな若い貴族」と添え書きがある。これは土田文菜にも似合いそうな言葉だ。小説家という職業はどこか貴族のようなイメージがなくもない。漱石の言葉を借りれば高等遊民となるだろうか。このドラマを見ていると小説家ってすれっからし(&心を病みがち)だなあと思えてくるのだが、もともとの発想の原点では映画監督、映画人なのかもしれず、その方がどちらかというとありえそうな気もする。
「ドン・ジョヴァンニ」では、周知の通り、主人公が殺した騎士長(ドンナ・アンナの父)の幽霊が石像の形を借りて登場し、主人公と対峙する。これについて、とくに物語の最後の決着については、是非があるところだろうが、石像が登場することによってこの世俗的女たらし物語に締まりが与えられるのは間違いない。石像はあの世からこの世への闖入者であり、このやくざな艶聞譚を宇宙の座標に定位させる聖なるピンである。
この石像に当たるものが「冬のなんかさ、春のなんかね」にはないように見える。あった方が作品にアクセントができ引き締まるようにも思われるのだが、そういう超越的なものを持ち込まないという今泉力哉の作品思想が働いているのだろうか。それも一つの立派な考え方、姿勢だが、かつて「静劇は、静劇のままであれば、単なる静劇にすぎない」とナンセンスな同語反復の戯言を書いたことがある私としては、気になるところだ。強いて言えば、出現して程なくむなしく消える空色のマフラーが石像に当たるか。この小道具はおっかない凶器のようでありとても効果的。マフラーが一瞬恐怖の石像に見えるとしたらこれはマジックだ。ついでにもう一つ言えば、小太郎(岡山天音)は幾分か従者レポレッロの役割を担っているように見える。そして男たちが少し間が抜けていたりヘンテコだったりの奇矯な善良さがこのドラマの世界をパステル画のように柔和にしている。
「未来のムスコ」には色狂いの要素はないが、「ドン・ジョヴァンニ」の石像に当たる要素が組み込まれている。主人公の汐川未来のもとに、十年後の未来から自分の息子颯太がやってくるという超越的なSF設定がそれだ。異世界からの闖入者。ただ、「ドン・ジョヴァンニ」の石像は主人公と敵対する存在だったのに対し、こちらのムスコは主人公にとって守護神のような存在であり、導きをもたらす。しかしそれとともにとんでもない生活上の苦労も主人公に負わせ、社会的底辺にいる彼女は圧し潰されそうにもなる。このムスコは、あえて言い換えるなら、思いがけなく訪れる巨大な「ヴィジョン」であり、それを受け入れるか、どう関わるかは本人次第だ。ドン・ジョヴァンニは石像によって破滅的結末へと導かれるが、汐川未来はかわいいけれど世話の焼けるムスコによって予定されているはずの明るい世界へと導かれるのだろう、という予想は少し裏切られ、明るい色調が支配するドラマではあるが、最終局になってこのムスコが悲劇性を帯びていることがわかり、強烈なブルーが描き込まれ、絵全体にささやかな厳粛をもたらしている。
「冬のなんかさ、春のなんかね」では恋愛の危険な毒に酔わされることになるのに対し、「未来のムスコ」は悪人が出てくるわけでもなく、ドラマの基本的性格の限定ゆえ毒の要素は薄い。3年前の「勝利の法廷式」(弁護士役)のほうが悪の領域の近接、濃い毒の要素があって、その分表現される精神的深淵の色合いもぞくりとするダークさを帯びていたように思う。主人公自身が強烈な悪徳である「ドン・ジョヴァンニ」は、ベートーヴェンも嫌ったというが、なかなかなさそうな特殊な物語かもしれない。それでも主人公が悪を抱えるケースは、「罪と罰」「異邦人」「金閣寺」などあるにはあり、世界を逆さに切断して捉える一つの有力な方法と言えそうだ。
富山に関しては、富山弁は「未来のムスコ」のほうが濃く、富山の映像は「冬のなんかさ、春のなんかね」が見応えあった。
追記。カラヤンはベルリンフィルと録音したあと、翌々年の1987年にほぼ同じキャストでウィーンフィルとザルツブルグ音楽祭で同作を上演しており、DVDで視聴することができる。
追記2。「未来のムスコ」は劇団活動が中心にあるが、ドラマの中に舞台を持ち込む劇中劇の形は、劇の全体をやる訳にはいかないから、映えるようにするのは簡単ではない。昨秋の三谷幸喜脚本のドラマにも舞台を映し出すシーンがあったが、暗闇に始まり暗闇に終わる演劇は巨大な夢そのものであり、舞台装置、衣装、照明、音響を駆使して舞台の一シーンを宝石にまで磨き上げないと説得力が不足するという難しさがある。そういえば映画「陽炎座」、「国宝」、「木挽町のあだ討ち」も舞台シーンを重要な要素として組み込んでいた。いずれにしても、本筋と有機的に絡み合っていると、それだけ効果が上がるようだ。
追記3。これは蛇足だが。志田未来が出演している最近の映画「ほどなく、お別れです」は葬式の宗教的対話のチャンネルが可視化される感じ、死と大地がつながる感覚がある。棺を大風景の中に置くシーンは、我々の現在の生活風習からすればデペイズマン効果があり、どことなくマグリット絵画の趣になっていて、この映画の発明と思われた。
(池田康)
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